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2014年12月19日 (金)

禅問答の名言 - 高田明和

高田 明和(たかだ あきかず)
1935年、静岡県生まれ。医学博士。専門は、血液学、大脳生理学、精神医学。

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本文より

わけのわからない議論を「禅問答のようだ」といいます。禅の話、すなわち禅問答は、一般の人には非常にわかりにくいものだと考えられています。・・・思考や論理でなく、「直感で体得する以外、悟りは得られない」というところから、一般人にはわからないものだという考えが生まれたのです。

禅では坐禅のときも日常の生活でも「常に無になりきれ」といわれます。

趙州のような優れた禅者は、同じ出来事に異なった意見を述べることがある

「人は何か悪いことが起こるとがっかりして、自信を失い、苦しむが、それは間違いなのだ。今まで悪行が積まれていたのが、このことで借金を返し、これからはよいことが来ると考えるべきだ。いっぽう、よいことが起こると有頂天になるが、これも間違いだ。これは善業の貯金を使ったようなものだから、喜んでばかりいないで、すぐにまたよいことをして貯金をふやさなければならない」(達磨大師)

「悟ったら、悟りのさの字もないところまで捨てなくては」(円覚寺古川尭道老師)

「十の発言をして九つ当たっても、世間は賞賛はしない。もし一つでも間違えばただちに批判される」

「何かを求めるという気持ち自体が邪念だ。・・・それよりも求めるなどという気持ちを捨て、坐禅に専念する、只管打坐(ひたすら坐禅をすること)を続ければ、本当の心が分かる」というのが曹洞宗の立場です。それに対して、
「まず求めよ。求めに、求めていると、次第に求めているという意識がなくなる。そのときに、はっとわかるのだ」というのが臨済宗の立場です。

師はよく弟子を見、弟子はよく師の実力、人間性を知らなくては、人は育たない

歴史に残る公案の主人公は、いずれも、「とらわれてはいけない」と常に述べています。

「風が動くのでもなく、旗が動いているのでもない。お前たちの心が動いている」(慧能禅師)

「ぼんやり坐禅をするくらいなら、ねじり鉢巻きでバクチでもしているほうがよい」(白隠禅師)

考えに考えて、ついに何も考えない境地に至る

一歩退くことは、実は長い目で見ればもっと先に進むもとになる。

「よい馬が鞭の影を見て走り出すようなものだ」(釈迦)

器用ぶってかえって不器用になり、分別ぶってかえって無分別となる。相手に心の奥底を見透かされぬのが真の大将だ(武田信玄)

程度の差はあっても、生きていて生きていない人は多くいます。

「人は現実によって悩まされるのではなく、現実をどのように見るかで悩まされるのだ」(ギリシャの哲人エピクテトス)

「悟った」という人と話すと非常に自己中心的であり、他人の痛みが分からない人が多いのに驚かされます。

宇宙が大きく、米粒が小さいとはいえない

人間は下界の音にとらわれがちだ

吉凶は日にあらず、人にあり

苦しみに徹して苦しみから抜ける

世の中は みなうたた寝のひじ枕 右が叶えば、左叶わず

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