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2013年9月30日 (月)

学問のすゝめ - 福沢諭吉②

 『学問のすゝめ』は、もともと民間の入門書または小学校の教科書として、読者に供したものなので、初編から二・三編までは、できるだけ俗語を用い、文章も読みやすくするように心がけた。・・・この四・五編が、学生に向けて論を述べたものだ・・・
 世間の一般の学生は、だいたいみな腰ぬけで気力に欠けているが、文字を読む力はなかなかしっかりしている。

 親を殺した者は敵である前に一人の人間を殺した殺人犯である。この罪人を捕え、刑を与えるのは政府の務めであり、わたしらが関わることではない。親を殺された子供だからといって、政府に代わり、私にこの犯人を殺す理屈があるだろうか。さしでがましいばかりか、国民の務めを踏みはずし、政府との約束に背くものと言うほかない。・・・元禄の世に、浅野家の家来たちが主君の仇として吉良上野介を殺したことがある。世にこれを赤穂の義士と誉めたたえた。これは大きな間違いではあるまいか。 

 近ごろ、先月のことだが、わが慶應義塾にも一事件があった。・・・「この米国人教師は卒業証書を持っていない。だから語学の教師としてならともかく、文学科学の講師としては許可することはできない」東京府は、そう太田君に指令をくださった。・・・じつに一私塾の不幸ばかりか全国の学問のためにもひどい妨害と言うべきで、なんともバカらしく苦々しいことだったが、しかし国法の貴さを思えばどうすることもできなかった

 学生はなにを目的として学問しているのか。・・・真の独立を求めるためと言い、自主・自由の権利を、自分のものにするためと言う。そのとおりである。・・・独立とは、一軒に家に住み、他人に迷惑をかけないということだけではないし、それは単なる個人的な義務にすぎない。
 個人の立場を離れ、社会に対する義務を考えれば、日本人としてその名誉を汚さず、国民がともに力を尽くし、日本に自由独立の国際的地位を与えてこそ、個人と社会との義務を、真に果たしたというべきであろう自分の家で自分の生活に満足している者は、独立した人間であることを認めてもよい。しかし彼を、独立した日本人として認めることはできない

近ごろ故郷中津の旧友のうち、学業なかばにして、早くも生活の手段を求める人がしばしばあると聞いた。生計はもちろん軽んずべきでない。人には才能の有無もある。・・・しかし、この風潮が行きわたり、生計のみ目的とするようになったら、才能ある少年までが、能力を発揮せぬうちに、終わってしまうおそれもある。・・・生活が苦しいと言っても、じっくりその経済について考えていれば、少しの金を得て小さな安定を得るよりも、時期を待ち、努力と倹約の後に大きな成功をおさめるほうが、より多くの得ではなかろうか

 むかし漢文学を志し江戸に出てきた学生が、努力して学問に励み、先生の学説をノートに写しとった。そのノートは数百冊にもなり、もういいというので故国に帰ることになった。
 自分は陸路で、写したノートは貨物便として船便に託した。ところが不幸なことに、貨物船は静岡の沖で遭難した
 この学生は、ただノートを写しただけだったから、自分は帰郷したものの、その学問はすべて海に流れ、元の木阿弥で、努力のかいはなかったのである。
 現代日本の洋学者にも、右のよう危険性があるのではないか。都会の学校における授業の実態を見ると、たしかに学生は、学問に励んでいるように見える。だが、ここでその学生から急にテキストを取り上げ、すぐに郷里に帰したとしたらどうなるか。彼は故郷の親類や友人に、「自分の学問は、東京に置いてある」と、言い訳するのが落ちだろう。

 傲慢と勇敢、粗野と率直、頑迷と実直、軽薄と俊敏、すべて紙一重で悪徳とも美徳ともなるもので、もとの素質そのものが悪ではない。だが、ただ一つ、素質そのものが悪であり、したがって発揮される場所・強弱・方向にかかわらず悪徳以外のなにものでもないものがある。怨望がすなわちそれである。
 望は、それが心に起るとき、つねに陰にこもった起こり方をする。おのが身の不幸・不平を満足させるために、他人を不幸に陥れようと企てるのが怨望である。だから怨望を抱く者どもは、世間の幸福を破壊するだけで、世の中のために何の寄与もなしえない。

 怨望の源は自由の束縛にある。だから、言論は自由でなければならぬし、人の言動を妨げてはならない。
 試みに英米と日本を比較したとしたら、人びとの社会において、どちらが前述の大奥のありさまに近いだろうか。英米ははるかに遠く、日本はまだこれに近いのではないか

 疑いの心を抱き異説を唱え、審理を求めるのは、逆風の中を航海するようなものである。航海においては、ときに順風に遭い、船を進めることができるだろう。しかし、人間社会では、そんな幸運にはまず出会うこともない
 真理に到達する方法はただ一つ、自説と他説との論争を乗り切ることのみである

 しかし、事実を単純に信じるな、とは言うものの、疑うばかりではいけない。なにを信じ、なにを疑うか、選択する力が必要なのである。学問とはつまるところ、この判断力を養うことにある。・・・
 昨日信じていたことは、今日、大きな疑問となり、明日、その疑問は解決するであろう。だからこそ、学生は、学ばねばならぬのである。

 役者はいやだと言って学者になったり、車を曳かずに航海術を学んだり、農業に満足せずに著述に従ったりすることがあるのはなぜか。それは、活動の大小や軽重を区別し、軽小と思われるものをとらずに、重大と考えるものについた結果であり、それは、人間として向上心のある行為と言うべきである。・・・それがその人自身の考えであり意志である。こうした考えや意志を持った人を、理想の高尚な人という。・・・理想が高尚でなければ、活動もまた高尚にはならないからである

 いまの世に、このての不平家ははなはだ多い。その証拠を見たいというなら、ふだん人の顔をよくうかがっていればよい。ことばや表情に、心中の愉快があふれでているような人間には、めったにお目にかかれまい。わたしの経験でも、喜びあふれる表情に出会ったためしはない。見かけるのは、不幸の見舞いにちょうどいいような陰気な顔つきばかりだ。これを気の毒といわずしてなんと言おうか。・・・いつまで経っても、行動は低きにとどまり、理想のみがひたすら高い。一の行動力で十の理想を求め、求めて得られずに、むだな憂いに沈んでいる

 もし他人の仕事に不満だったら、自分でその仕事を試みてみたまえ。・・・他人の著書を批判したいと思うなら、まず自分で筆を執って書物を著してみることだ。・・・世の重大事から、ごくささいなことにいたるまで、たといどんなことでも、他人の行動に口出ししようと思うなら、試しに自分をその立場において、みずからをふり返ってみるべきである。

 顔いろや容貌を、いきいきと明るく見せることは、人間としての基本的なモラルである。なぜなら人の顔いろは、家の門口のようなものだからである。・・・身体を鍛えれば筋肉が強くなるのと同様である。ことばづかいも顔かたちも、心身の働きによってよくなっていくのである。こういう大切な心身の働きを捨て、無口・無表情をよしとする、日本人の古い習慣は大きな誤りと言うべきだろう。今日からでもこの働きを重視して、人間の基本的モラルの一つに加えてほしいと思う。  

 「道おなじからざれば相与に謀らず」(論語)という言葉がある。考えが違う者とは、心を打ち明けるつき合いをしない、の意だ。世の人はこの教えも誤解して、学者は学者、医者は医者同士がつき合えばいい、と考えている。・・・人と交わるには、古い友を忘れず、新しい智を求めなくてはならぬ。・・・友人とは、そう簡単にできるものではない。十人会って一人の友ができればいいほうだ

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