« ドイツ式壁ありサッカーU-17 Keramik-Cup 2014日本予選 | トップページ | 学問のすゝめ - 福沢諭吉② »

2013年9月29日 (日)

学問のすゝめ - 福沢諭吉①

福沢諭吉
1835年生まれ。慶應義塾の創立者であり、専修学校の創設にも尽力した。1872年に「学問のすゝめ」の初版出版。当時の日本の人口が約3000万人で、最終的に300万部以上売れるほどのベストセラー。明治六代教育家の一人。

Yuki

「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」と言われている。・・・貴いとか卑しいといった身分上下の差などない。・・・しかし、広く人間社会を見渡すと、賢愚・貧富、さらに貴族や身分の低い人など、人間の暮らしには、まさに雲泥の差がある。なぜなのだろう。
 その理由はまことにはっきりしている。『実語教』という修身の本には、「人、学ばざれば智なし、智なき者は愚人なり」とある。つまり、賢人と愚人の違いは、学ぶか学ばないかによって決まるのである

 文学作品を学ぶのも、人の心を慰め、暮らしのうえに役立つようではある。しかし、漢文学や古典の先生が言っているほどに、尊敬すべき学問だとは思えない。漢文の先生で家庭の財産を伸ばした人は少ないし、和歌が上手な商人で商売に成功した人も稀である。
 そこで心ある町人百姓は、わが子が学問に夢中になると、家の財産を食いつぶすのではないかと心配する。当然のことである。つまり、こうした学問が実用に役立たず、日常生活に利用できぬからである
 いま、われわれが学ぶべきものはなにか。右の現実的でない学問は二の次にして、まずやらねばならぬのは、日常業務に必要な実用の学問である。たとえば、いろは四十七文字を習うことだ。手紙の文章、帳簿の付け方、そろばんの練習、図りの計量法などをおぼえることだ。・・・
 これらは人間だれもが学ぶべき”実学”であり、身分・貧富の差もなく、全ての人間が身につけて当然の学問なのである。この学問が身についてこそ、それぞれの立場で自分の務めを果たし、家の仕事を営むことができるのである。それが一身の独立である。ひいては家の独立であり、国家の独立につながるのである

・・・
嘉永年間(1848~54)、アメリカ人の渡来以後、外国貿易がはじまり開港した後も、世間では、鎖国だ攘夷だと議論がやかましかった。その議論はじつにくだらないもので、「井の中の蛙」が広い世界も知らずに、ただわめいているようなものであった。
 日本人も西洋諸国の人民も、同じ天地の間にあって、同じ太陽、同じ月、海、空気をともにし、互いに通じ合う人情を持つ人民ではないか。余った産物は与え、外国に余っている物産はもらい、教え合い学び合い、恥じたり自慢したりせず、互いに相手国の便利を考えて、その発展を願うべきであろう

 およそ、世の中で無知蒙昧の民ほど憐れなものはないし、つき合いにくいものはない。彼らは恥を知らない。自分の無知を反省する能力がないから、金持ちを怨み、時には集団で富者を襲う。自分は国の法律で守られながら、自分に不利な場合は平気でほうを破るのである。・・・
 「愚民の上に苛き政府あり」という西洋のことわざはこのことを言う。これは、愚民が自分から招いた暴政であろう。人民がしっかりしていれば、政府もよくならざるを得ないからである。・・・
 国家の法がきびしいか寛やかであるかは、人民の品性・態度のあり方によって決まることなのである

 数年間の辛苦を重ね、多額の学費と使って、洋学を身につけたものの、まだ自分の独立した生活さえ立てられぬ者は、現在の学問に通じているとは思えない。こういう人物は知識の問屋にすぎない。・・・ただ和漢洋の書物を読むことだけが学問ではないのだ

「親と主人は無理を言うもの」とかいって、人間の権利が平等ではないかのような考えもあった。これこそ人間の生活状態と基本的人権とを同じように見なした悪例である。・・・百姓の身に痛いことは、地頭の身にも痛いはずだ。地頭の口にうまいものは、百姓の口にもうまかろう

 駿河の人民はただ今川義元一人にすがり、自分たちは寄食者のつもりで、駿河をわが国と考える者もなく、国は今川氏が守ってくれるものと単純に信じていた。
 フランスには、国に報いる精神を持った人民が多く、国家の危機をめいめいの身の危機だと自覚し、みずから国のために戦おうとする者が多かった。だからこそ祖国が救えたのである。両国の相違はここにある。
・・・
 独立の精神なき者は、常に他人をあてにする。他人をあてにする者は、必ず他人の態度を気にする。他人を気にする者は、必ず他人にお世辞を使う。こうして、つねに相手を気にし、ゴマをする者は、いつかそれが習性となり、面の皮が厚くなり、恥知らずの人間となる。言いたいことも言えず、人に会えばただ腰を曲げ下手に出るだけだ。

 個人としては知識人、公務員としては愚者、一人のときは賢人で、集団では暗愚になる。つまり政府は、多くの智者が集まって一つの愚行を行うところと言うべきだろう。この理由こそ、日本人の気風にある。気風に押され、個性を発揮することができないからである。

 最近、洋学者も増えてはきたが、彼らは欧文や翻訳書を読んで学びはするものの、文字を読んでもその本質を理解せず、理解したときも実行に移す誠意に乏しい。・・・漢学の体に洋楽の衣を着たようなものである。・・・日本人特有の教育観が染みついて、官庁勤めが最高の出世だと思い、それを人生の目的にしているのだろう。

 わたしらの身分は、学識こそまだ浅いが、洋学を学んで久しく、中流以上の地位にあると言える。・・・いま人民に先立ち、事業をはじめることこそ、まさに私の任務と言うべきであろう。・・・みずから実例を示すのがなによりだ。・・・そこでわたしは義塾社中とともに、私立の立場から学術を講義し、商業に従事し、法律を研究し、本を出版し、新聞を発行して、人民を啓蒙することにした。・・・百の説法より一つの実例を示すことが先決なのだ。・・・やってみないで事の成否を疑うのは、勇気ある人間とは言えない

|

« ドイツ式壁ありサッカーU-17 Keramik-Cup 2014日本予選 | トップページ | 学問のすゝめ - 福沢諭吉② »

Hobbies (本、映画、音楽、名言など)」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.f.cocolog-nifty.com/t/trackback/19235/53656366

この記事へのトラックバック一覧です: 学問のすゝめ - 福沢諭吉①:

« ドイツ式壁ありサッカーU-17 Keramik-Cup 2014日本予選 | トップページ | 学問のすゝめ - 福沢諭吉② »