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2012年10月31日 (水)

死の壁 - 養老孟司

養老孟子(ようろうたけし)
1937年鎌倉生まれ。
解剖学者、東京大学名誉教授。
2003年の「バカの壁」につづき、「死の壁」は2004年に出版された。

「私がまだ東大の解剖学教室にいた頃の話です。自殺の名所といわれる団地が都内にありました。そこに解剖のためのご遺体を引き取りに行ったことがあった。・・・亡くなった方は団地の十二階に住んでいました。・・・このときに、ここは人が死ぬことを考慮していない建物だと思いました。・・・設計者はそこで人が死ぬということを想定していなかったのです。・・・
本書では、死にまつわる問題をさまざまな形で取り上げています。現代人は往々にして死の問題を考えないようにしがちです。しかし、それは生きていくうえでは決して避けられない問題なのです」

現代の人間というのは精密な時計を分解して得意になっている子供のようなものではないでしょうか。・・・第二次大戦後、冷戦時代に米ソでどんどん核ミサイルを作った。気づいたらとんでもない数になっていました。それを、冷戦終結後に二年間で二万発減らそうという話になった。ところが実際の処理は一ヶ月に数発しか出来ません。・・・自分たちで安全に壊すことすら出来ないものを作って一体どうするのでしょう。正気の沙汰ではありません。漫画です」

日本人は勤勉だから、本人の自由ということにしておくと、誰も職場から離れようとしない。”俺が休んでいる間にあいつが抜け駆けするんじゃないか”となる」

Shi

蠅を叩き潰すのには、蠅叩きが一本あればいい。じゃあ、そうやって蠅叩きで潰した蠅を元に戻せますか。・・・(ブータンでは)蠅ですらも簡単に殺してはいけないという論理がこんな形で存在している。・・・しかし、他の国ではどうでしょう。今はあちこちで生命を平気で叩き潰しています。そういう現代人が、”なぜ人を殺してはいけないのか”と聞かれても答えに詰まるのは当然のことかもしれません」

人は自分のことを死なないと勘違いするようになりました。そんなことはない、と仰るかもしれません。でも、現に高層団地から死は排除されていました。間が死ぬということが知識としてはわかっていても、実際にはわかっていないのです

「死が実在でなくなったことについては、派出所の看板が象徴的です。あれを見れがいかに死を実在でないと考えているかがよくわかります。なぜならあそこにある死亡事故の看板には数字が書いてあるだけなのです。・・・そこでは人の死を単なる数字に置きかえてしまっているのです。見るほうには何の実感もわかない」

死体には三種類あるのです。”ない死体””死体でない死体””死体である死体”の三種類です。これと対応する人称があることに思い至った。・・・まず”一人称の死体”。・・・つまり”俺の死体”です。これは”ない死体”です。・・・言葉としては存在していますが、それを見ることは出来ないのです。・・・
では”二人称の死体”とは何か。・・・ここで重要なのは、親しい人の死体は死体に見えないということです。それが”死体でない死体”ということです。・・・では”三人称の死体”とは何か。ここで亡くなっているのは第三者、アカの他人のことです。これが”死体である死体”です。そしてこの”三人称の死体”のみが、私たちにとって簡単に死体になります。死体として認識することが出来るといってもよい。交番に貼ってある”昨日の交通事故死者一名”というのは、要するにアカの他人が一名亡くなりましたということを言っているわけです」

「原理主義、あるいは一元論というものを『バカの壁』でも延々と批判しました。一元論に陥ったときに、人は絶対の真実があると思い込んでしまいます。絶対の真理を信じる人は絶対の正義を振りかざします。・・・人間は”自分が絶対だと思っていても、それとは別の考えもあるだろう”というくらいの留保を持ったほうがよい」

「一九六〇年代の大学紛争時、運動をしている側の学生が研究室に押しかけてきて”この非常時にのうのうと研究なんかしやがって”と言ってきました。・・・それは典型的な戦時中の物言いと同じだったのです。”お国の非常時に一体なにをやっとる”というやつです。・・・窮屈な空気を押しつける人はたくさんいました。そして、そういう窮屈さとか厳格さに、ある種の快感を感じている人がたくさんいたのです

「こういう人の押しつけがましさというのが、共同体の持つ一つの体質なのです。平等性を求める。”俺がこんなにみんなのために必死になっているの時に、お前らなんだ”という押しつけがましさです。・・・”みんなのため”には、本当はいろんなことをしなければならないのです。みんなが同じことをするというのこととは違います。それが誤解されてしまっている。いろんな選択肢が消されて一つのことを押し付けてくる」

エリートというのは、否が応でも常に加害しうる立場にいるのです。・・・たとえば乃木希典陸軍大将を例にとってみましょう。日露戦争の二百三高地での戦いでは彼はたくさんの若い兵隊たちを死なせてしまった。さまざまな見方はあるでしょうが、だから最後は自分も腹を切った。
兵隊を死に追いやった重さを乃木大将は背負わなくてはいけなかったからです。エリート、人の上に立つ立場の人というのは、本来こういう覚悟がなくてはいけない。常に民衆を犠牲にしうる立場にいるのだ、という覚悟です。・・・
さまざまな工事で事故死する人がいることを承知していなければならない。・・・そんなこともわからずにエリート面してどうするのか」

「昨今は安楽死でいえば、全てが医者の責任で行われて、あたかも一般の人にはその後ろめたさが無いかのような議論が目立ちます。その仕事を他人にやってもらうという後ろめたさが無い。・・・地元に利益誘導をして政治家が”悪い奴だ”と言われたりします。鈴木宗男氏が袋叩きにあったのは記憶に新しいところです。しかし、利益誘導を頼んだ側は余程のことがない限りおとがめなしです」

「現代人はともすれば、とにかく明文化すること、言いかえれば意識化することそれ自体が人間のためである、進歩であると考えます。そこには一体どこ程度まで意識化することが人間のためになるのか、という観点が抜けているのです。意識化することを一つの目標とするのは、学者としては正しい立場なのかもしれません。しかし、私はどこか根本的に見落としている点があるような気がするのです。言語に絶するというか、どこかで言葉に出来ない領域があるのではないか、あってもいいのではないかと思うのです

「まだ私が東京大学の解剖学教室にいるときの話です。解剖を進めていって、最終週に入った日に、一人の学生が花を一輪、机の上に供えたのです。普段は、そういうことは誰もやりません。が、私は”ああ、いいことをするな”と思って感動したのです。その翌日、教室に行くと今度は全員の机の上に花が一輪、供えてありました。・・・”何も言ってないのに、学生も捨てたもんじゃないな”と思いました。東大にいる間で、一番感動した瞬間です」

「医者ならば今でもこういう人の死に関係した経験を嫌でもするわけです。しかし、人の生死に関わっているという意識がないままに”エリート”になってしまう人が多い。だから、患者を人ではなくて、カルテに書かれたデータの集積、つまり情報としか見ない医者が増えた。これが困ったことだと思うのです」

「人生のあらゆる行為に回復不能な面はあるのです。死が関わっていない場合には、そういう面が強く感じられないというだけのことです。ふだん、日常生活を送っているとあまり感じないだけで、実は毎日が取り返しがつかない日なのです。今日という日は明日には無くなるのですから。人生のあらゆる行為は取り返しがつかない。そのことを死くらい歴然と示しているものはないのです

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