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2012年6月27日 (水)

不動智神妙録 - 沢庵

沢庵 宗彭(たくあん しゅうほう)
1573年、但馬国出石に生まれる。臨済宗の僧、1646年没。書画、詩文、茶の湯に通じ、一説では漬物の沢庵漬けの考案者と言われている。

「不動智神妙録」は、沢庵が柳生但馬守に向かって「剣禅一如」を説いたもので、禅で武道の極意を説いた最初の書物とされている。

Takuan

無明住地煩悩、無明という文字は明らかでないという言葉です。明らかでないところに迷いが生じるので、迷いを意味します。住地とは・・・物事に心が止まることを指しているのです。住という文字には止まるという意味があり、何かにつけて心が一つのことにとらわれるのを、心が止まる、すなわち住地というのです。
この無明住地を、あなたがよくご存じの兵法にたとえて説明してみましょう。敵が刀を振り上げて切りかかってきたとします。その刀を一目見て、”あっ、来るな。”などと思うと、相手の刀の動きに心がひきずられて、こちらは自由に動くことができずに切られてしまいます。
打ち込んできた刀を見ることは見るのですが、それに対して、ここで相手の刀を切りかえそうとか、どうやって打ちこもうかなどと思慮分別を一切持たずに、つまり少しもとらわれることなく、ただただ相手の刀に応じていけば、切りかかってきた刀をこちらにもぎ取って、かえって相手を切ることができるのです」

諸仏不動智という言葉があります。不動とは動かないということ、智は知恵の智です。動かないといっても、石や木のように、全く動かないというのではありません。心は四方八方、右左と自由に動きながら、一つの物、一つの事には決してとらわれないのが不動智なのです。」

「何かを一目見て、心がとらわれると、いろいろな気持ちや考えが胸のなかに湧き起こります。胸のなかで、あれこれと思いわずらうわけです。こうして、何かにつけて心がとらわれるということは、一方では心を動かそうとしても動かないということなのです。自由自在に心を動かすことができないのです。
たとえば、十人の敵が一太刀ずつ、こちらに浴びせかけてきたとします。この時、一太刀を受け流して、それはそのままに心を残さず、次々と打ってくる一太刀一太刀を同じように受け流すなら、十人全部に対して、立派に応戦できるはずです。十人に対して十度心を動かしながら、どの一人にも心を止めることをしなければ、どの敵に対しても応じられるのです。もし、一人の敵を前にして、心が止まるようなことがあれば、その一人のたちは受け流すことができても、次の敵に対して、こちらの動きが抜けてしまうことになるでしょう」

「千手観音だとて、手が千本おありになりますが、もし、弓を持っている一つの手に心がとらわれてしまえば、残りの九百九十九の手は、どれも役にはたちますまい。一つの所に心を止めないからこそ、千本の手が皆、役に立つのです。・・・
たとえば、一本の木を見ているとしましょう。そのなかの赤い葉一枚に心を止めて見れば、残りの葉は目に入らないものです。葉の一枚一枚に目を止めずに、木の全体を何ということもなく見るなら、たくさんの葉が全部、目に入ります
このことを悟った人は、つまり千手千眼の観音と同じです

「初心から修業を始めて、不動智を自分のものにすると、もう一度初心に戻るということがあります。・・・
はじめて刀を持つ者は、どうやって刀を構えてよいかすらわかりませんから、何事も心にかかりません。相手が打ちこんでくると、思わず立ち向かおうとするだけです。
それが、刀を構えるにはこう、その時、どんな点に気をつければよいかなど、いろいろな事を教えられるに従って、あれやこれやと気にかかるようになり、かえって身のこなしも不自由になるものです。
しかし、長い年月の間、稽古を積んでゆくと、どういうふうに身を構えようかとか、刀はどうなどとは少しも思わなくなって、ついには、自然に、何も知らなかった初心の時のように、無心の状態でいられるようになるのです。最初と最後は似たようなものだということでしょうか」

理の修業事(わざ)の修業ということがあります。理とは右に申しましたように、ゆきつく所にいけば、何にもとらわれないということで、無心になる修業をいいます。・・・ところが、どれほどに理の修業を積んでも、事の修業をしなければ、手も身体も思うように働かすことができません。事の修業とは、兵法でいえば五つの身の構えなど、さまざまに習う、技術の修業です。・・・事と理、それは車の両輪のように、二つそろっていなくては役に立たないものです」

石火の機ということがあります。これも、間髪を容れずと同じです。石をハタと打つと、その瞬間、光が出る。石を打つのと火が出るとの間に隙間というものはありません。
つまり、心を止める間のないことを表しているのであって、これを素早いことを意味しているのだなどと理解するのはいけません。心を物に止めないということが大切なのです」

心の置所。心をどこに置いたらよいか。・・・ある人が、こんなことをいいました。
”自分の心をどこか置くと、その心の在る所に心を止めてしまい、敵に負ける。そこで自分の心を臍(へそ)の下に押し込めて、よそにはやらぬがよい。そして敵の動きに対応して自在に動かすがよい。”
それも、もっともな言い分です。しかし、仏法の悟りの境地から見ますと、臍の下に押し込んでよそにやらぬというのは低いもので、最高とはいえません。・・・
臍の下に押し込んで、よそにはやるまいとすれば、やるまいと思う心に心をとらわれて、自由に心を動かすことはできなくなるということです」

「ある人はまた、こう聞きました。
”心を臍の下に押し込んでしまっては、動きが自由にならず、役に立たないというのであれば、心を身体のどこに置いたらよいものでしょう”
私はこう答えたのです。
”・・・身体中のどこか一カ所に心を置くとなれば、結局、よそは全部お留守になってしまうのです。”
”それでは、どこに置いたらよいのでしょう。”
どこにも置かぬことです。そうすれば、心は身体いっぱいに行きわたり、のびひろがります。手を使うときには手の、足が肝要の時は足の、眼が大切な時は眼の役にたち、身体中どこでも必要に応じて、どこでも自由な働きをすることができるのです。”」

心が思うことの方に片寄れば、耳に聞こえてくるものでも聞こえません。目を見開いていても、何も見えないと同じことなのです

「やろうという心を持たなければ、何事もできません。やろうとして心を働かせれば、そこに心が止まる、それを止まらせずにやるのを、それぞれの道の名人というのです。・・・花や紅葉を見て、花や紅葉を見る心は持ちながらも、花や紅葉に心を止めないのが肝心なのです」

心を常に引きしめておくのは、不自由なことであります。しかし、そうやって引きしめておかねばならぬのは、未だ修業を始めたばかりの時のことです。何時までもそのように心がけるのが精一杯では、到底、高く深いものを自分の身につけることはできず、一生を初心者、入門者の段階で終わらせることになります」

前後際断、前後の際を断つという言葉があります。前の心を捨てないことも、今の心をあとに残すことも、よくありません」

「親の心がけ、行動が正しくないのに、子供の悪を責めるのは誤りです。あなたがまず、身を正しく持し、その上で意見をなさるなら、自然、素行も改まり、弟の内膳殿も兄の行動を見習って正しくなるに違いありません」

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