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2012年2月20日 (月)

葉隠入門 - 三島由紀夫

プロローグ 「葉隠」と私

 若い時代の心の伴侶としては、友だちと書物とがある。しかし、友だちは生き身のからだを持っていて、たえず変わっていく。・・・書物もある意味ではそのようなものである。・・・しかし、友だちと書物との一番の差は、友だち自身は変わるが書物自体は変わらないということである。・・・われわれはそれに近づくか、遠ざかるか、自分の態度決定によってその書物を変化させていくことができるだけである

・・・ここにただ一つ残る本がある。それこそ山本常朝(やまもとじょうちょう)「葉隠(はがくれ)」である。戦争中から読みだして、いつも自分の机の周辺に置き、以後二十数年間、折りにふれて、あるページを読んで感銘を新たにした本といえば、おそらく「葉隠」一冊であろう。わけても「葉隠」は、それが非常に流行し、かつ世間から必読の書のように強制されていた戦争時代が終わったあとで、かえってわたしの中で光を放ちだした。「葉隠」は本来そのような逆説的な本であるかもしれない。戦争中の「葉隠」は、いわば光の中に置かれた発光体であったが、それがほんとうに光を放つのは闇の中だったのである

・・・(戦後)当時この一冊の本(葉隠)は、戦時中にもてはやされたあらゆる本と同様に、大ざっぱに荒縄でひっくくられて、ごみための中へ捨てられた、いとうべき醜悪な、忘れ去らるべき汚らわしい本の一つと考えられていたからである。かくて「葉隠」は時代の闇の中で、初めてそのほんとうの光を放ち出した。
 わたしが戦争中から「葉隠」に感じていたものは、かえってその時代になってありありとほんとうの意味を示しはじめた。これは自由を説いた書物なのである。これは情熱を説いた書物なのである。「武士道といふは、死ぬ事と見付けたり」という有名な一句以外に「葉隠」をよく読んだことのない人は、いまだに、この本に忌わしいファナティックなイメージを持っている。しかし、「武士道といふは、死ぬ事と見付けたり」というその一句自体が、この本全体を象徴する逆説なのである。わたしはそこに、この本から生きる力を与えられる最大の理由を見いだした。

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一 現代に生きる「葉隠」

 戦後二十年の間に、日本の世相はあたかも「葉隠」が予見したかのような形に移り変わっていった。日本にもはや武士はなく、戦争もなく、経済は復興し、太平ムードはみなぎり、青年たちは退屈していた。「葉隠」は前にもいったように、あくまでも逆説的な本である。「葉隠」が黒といっているときには、かならずそのうしろに白があるのだ。・・・それやこれやを考えると、現代には、「葉隠」というあの厳しい本の背後に広がっていたその本の内容とは反対の世相、いかなる時代にも、日本人が大変の世に対して示す反応と同じ反応が広がっていた。

・・・この書物を読んでいくときには、まず武士であるかないかという前提の違いが当然問題になる。そして、その前提の違いを一度とび越して読んでいけば、そこにはあらゆる人生知や、現代でも応用できるさまざまな人間関係に関する知恵が働いている。・・・

・・・しかし、死だけは、「葉隠」の時代も現代も少しも変わりなく存在し、われわれを規制しているのである。その観点に立ってみれば、「葉隠」の言っている死は、何も特別なものではない。毎日死を心に当てることは、毎日生を心に当てることと、いわば同じことだと言うことを「葉隠」は主張している。われわれはきょう死ぬと思って仕事をするとき、その仕事が急にいきいきとした光を放ち出すのを認めざるをえない。
 われわれの生死の観点を、戦後二十年の太平のあとで、もう一度考えなおしてみる反省の機会を、「葉隠」は与えてくれるように思われるのである。

二 「葉隠」四十八の精髄

『「葉隠」はこれを哲学書と見れば三大特色を持っている。一つは行動哲学であり、一つは恋愛哲学であり、一つは生きた哲学である。・・・「武士道といふは、死ぬ事と見付けたり」は第一段階であり、「人間一生誠にわづかの事なり。好いた事をして暮らすべきなり。」という理念は、その裏であると同時に奥義であり、第二段階なのである。「葉隠」は、ここで死と生とを盾の両面に持った生ける哲学としての面を明らかにしている』

3 デリカシー
『忠告は無料である。われわれは人に百円の金を貸すのも惜しむかわりに、無料の忠告なら湯水のごとくそそいで惜しまない。しかも忠告が社会生活の潤滑油となることはめったになく、人の面目をつぶし、人の気力を阻喪させ、恨みをかうことに終わるのが十中八、九である。常朝はこのことをよく知っていた。・・・そこには、人間心理についての辛辣なリアルな観察の裏づけがあるのであって、常朝はけっして楽天的な説教好き(人間性にもっとも無知な人びと)の一人ではなかった』

5 寛容
『あくまでも明快な行動、豪胆な決断を目標とした葉隠哲学は、重箱の隅をほじくるような、官僚的な御殿女中的な倹約道徳とは無縁であった。そして、その思いやりの延長上におのずから、見のがし、聞きのがしという、生活哲学を持ち出している。そして見のがし、聞きのがしという生活は、かた苦しい倹約哲学の裏側にあって、いつも日本人の心に生きていたものであった。現代では、見のがし、聞きのがしの度が過ぎて、すべて見のがし、聞きのがしのほうがもとになってしまったことから、「黒い霧」といわれるまでの道徳的腐敗が惹起されることになった。それは寛容ではなくて、ただルーズだけというだけだ』

9 世間知
『プロスペル・メリメがかつて言ったが、”小説家というものはどんな小さいものにも理論を持っていなければならない。たとえば手袋一つにも理論を持っていなければならない。”小説家に限らず、われわれは生き、生を享楽する側面では小さな事柄にも常に理論を持ち、判断を働かせ、決断をくだしていかなければならない。・・・あるイギリス人にとっては、自分は紅茶茶わんに先にミルクを入れて、あとからお茶を入れるべきであるにもかかわらず、もし人が先に紅茶を入れて、あとからミルクを入れれば、自分のもっとも重大な思想を侵される第一歩と考えるにちがいない。常朝が言っている「小事の思案は重くすべし。」というのは、アリの穴から堤防が崩れるように、日常坐臥の小さな理論、小さな思想を重んじたことと考えられる』

10 準備と決断
長い準備があればこそ決断は早い。そして決断の行為そのものは自分で選べるが、時期はかならずしも選ぶことができない。・・・「葉隠」は、そのような準備と、そして向こうから運命がおそってきた瞬間における行動を、あらかじめ覚悟し、規制することに重点を置いている』

12 酒席の心得
日本人の酒席の乱れは国際的に有名である。・・・しかし「葉隠」は、あらゆる酒の席を晴れの場所、すなわり公界と呼んでいる。武士はかりにも酒のはいった席では、心を引き締めていましめなければならないと教えている。・・・しかし「葉隠」がこのように言っているのは、これと反対の事例が、いま同様いかに多かったかを証明するものでしかない』

15 子供の教育
父親は疎外され、父親と息子との間における武士的な厳しい伝承の教育は、いまや伝承すべき何ものもないままに没却されてしまい、子供にとってすら父親は、ただ月給を運ぶ機械にすぎなくなり、なんら精神的なつながりの持たれないものになってしまった』

18 男と鏡
『「葉隠」がここに言っている人間の、あるいは男の顔の理想的な姿、「うやうやしく、にがみありて、調子静かなる」というのは、そのまま一種の男性美学といえる』

44 エゴティズム
『エゴティズムはエゴイズムとは違う。自尊の心が内にあって、もしみずから持すること高ければ、人の言行などはもはや問題ではない。人の悪口をいうに及ばず、またとりたてて人をほめて歩くこともない。そんな始末におえぬ人間の姿は、同時に「葉隠」の理想とする姿であった』

48 時間の効用
『「身養生さへして居れば、終には本意を達し御用に立つ事なり。」という、もっとも非「葉隠」的な一句を語るのである。彼にとって身養生とは、いつでも死ねる覚悟を心に秘めながら、いつでも最上の状態で戦えるように健康を大切にし、生きる力にみなぎり、100パーセントのエネルギーを保有することであった。ここにいたって彼の死の哲学は、生の哲学に転化しながら、同時になお深いニヒリズムを露呈していくのである』

三 「葉隠」の読み方

 日本人は、死をいつも生活の裏側にひしひしと意識していた国民であった。しかし日本人の死の観念は明るく直線的で、その点、外国人の考えるいまわしい、恐るべき死の姿とは違っている。中世のヨーロッパにおける大きな鎌を持った死神の姿は、日本人の脳裏にはなかった。・・・

 われわれは西洋から、あらゆる生の哲学を学んだ。しかし生の哲学だけでは、われわれは最終的に満足することはできなかった。また、仏教の教えるような輪廻転生の、永久に生へまたかえってくるような、やりきれない罪に汚染された哲学をも、われわれは親しく自分のものとすることができなかった。「葉隠」の死は、何か雲間の青空のようなふしぎな、すみやかな明るさを持っている。・・・

われわれは、運命と自分の選択との間に、ぎりぎりに追いつめられた形でしか、死に直面することができないのである。・・・問題は一個人が死に直面するというときの冷厳な事実であり、死にいかに対処するかという人間の精神の最高の緊張の姿は、どうあるべきかという問題である。・・・

「図に当らぬは犬死などといふ事は、上方風の打ち上りたる武士道なるべし。二つ二つの場にて、図に当ることのわかることは、及ばざることなり。」図に当たるとは、現代のことばでいえば、正しい目的のために正しく死ぬということである。その正しい目的ということは、死ぬ場合にはけっしてわからないということを「葉隠」は言っている。・・・

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