« 2011年9月 | トップページ | 2011年11月 »

2011年10月の3件の記事

2011年10月28日 (金)

不動心 - 松井秀喜

001

はじめに:


「どんな技術やパワーよりも、逆境に強い力を持った選手になりたいと願っています」

「日本海のような広く深い心と白山のような強く動じない心。僕の原点はここにあります」

第1章:5・11を乗り越えて

「アクシデントは突然やってきますが、いつも僕を成長させてくれます。今回の骨折も、松井秀喜という未熟者を厳しく鍛えてくれました

「いつか現役を引退するとき、左手首を見つめて『おい、あのとき骨折してよかったよなあ』と語りかけてやりたい」

「所属するチームに対する『誇り』は、野球に対するモチベーションを保つ上で、非常に重要な要素ではないかと思います」

第2章:コントロールできること、できないこと

「思い通りに行かなくても、『まあ、いいか』ぐらいに思っていると、うまくいくような気がします」

第3章:努力できることが才能である

「松井秀喜というバッターを評価するとき、自分が一番厳しい評論家であるべきだと思っています」

「失敗と付き合うことは『あきらめる』ことではありません。すぐに忘れてしまう、あるいは達観することでもありません」

「僕が大好きだった掛布選手が、スランプに悩んでいるとき『どうしたらいいか』と長嶋さんに相談の電話をかけたところ、『そこでバットを振ってみろ』と言われたそうです。そして長嶋さんは、電話越しに掛布さんのスイングの音を聞いた。本当かどうかわからない話ですが、何となく本当のような気がします。それぐらい、長嶋さんはスイングの音を大切にしていました」

「僕の目標は『162試合すべてに同じように臨む』です」

結果を左右するのは、願いの強さよりも『平常心』ではないかと思います」

「最後までフルスイング」(打点をのばせば三冠王を狙える状況で、自分の信念を貫いた)

心が変われば行動が変わる
  行動が変われば習慣が変わる
  習慣が変われば人格が変わる
  人格が変われば運命が変わる

(星稜高校時代の練習場に掲げられていた言葉)

第4章:思考で素質をおぎなう

「結果が出ないときにグランド外で心掛けているのは、おいしいものを食べて、ぐっすり寝ることぐらいでしょうか」

「スランプになったときでも、思考やスタンスがブレないように、自分の根幹の部分を日頃から強固にしておく、鍛えておくことが大事だと思っています」

「運ではなく、そういう肝心な場面(チャンス)で、選手が点を取れる確率の高い打撃を意識できているかどうか。逆に守りでは、点をやらずにしのげる確率の高いディフェンスができているかどうか。それが、強いチームと弱いチームの差だと思うのです」

仮に『勝負強さ』というものがあるとすれば、それは運というより、考え方とか技術的なものでしょう。つまり、思考や練習によって磨けるものなのです

「大リーグにいるような選手たちは、ごく限られた人たちを除いては、素質や能力にそう大きな違いはないと思います。差が出てくるとしたら、自分になにが欠けているのかを正確に受け入れ、それをおぎなうための正しい思考を持っているかどうか。そして、おぎなう努力を継続していけるかどうか、だと思います」

第5章:師から学んだ柔軟な精神

「彼(ドン・マッティングリーコーチ)が優れたコーチだと思うのは、引き出しをすごくたくさん持っている点です」

文化や習慣が違うからといって、最初からはねつけるのではなく、よいものは受け入れようという頭と気持ちの柔軟さ。ヤンキースは、こういった柔軟な思考を持った首脳陣が率いているチームなのです」

「信念は嘘よりも危険な真理の敵である。僕はこの『信念』を、過度の思い込みと置き換えて考えます」

「そのデスクは、怒鳴ることで記者の反骨心をあおろうとしたのかもしれません。怒られて悔しいと感じれば、なにくそ、次は怒られないようにしようと必死で頑張る。そう期待して怒鳴ったのかもしれませんが、怒鳴られた方は、そうは受け取らなかった。仮にデスクがそういう意図をもっていたとしても、結果的に意味がなかったわけです。仕事のミスを反省し、二度と同じ間違いはするまいと思うどころか、むしろ大勢の前で恥をかかされた恨みや憎しみだけが残ってしまった。相手がたとえ若い記者であろうと、デスクが敬意をもって接し、もう少し配慮をしていれば、自体は変わっていたかもしれません」

「竹は節があればこそまっすぐに成長する」

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011年10月21日 (金)

不道徳教育講座 - 三島由紀夫

1958年から「週刊明星」に連載され、1959年に単行本で刊行された三島由紀夫の「不道徳教育講座」。道徳、倫理、良識をひっくり返すような刺激的なタイトルがついた69章からなる。得意の心理分析、洞察で人間の心理を裏返し、悪へ、革命へ、破滅へ虚無へ向かう人間の原存在をチラリと垣間見せ、独特のレトリックで結局は健全道徳を容認し、その知恵や真実を賛美するような結論に持っていく。(解説・奥野健男)

P1070033

知らない男とでも酒場へ行くべし:

 十八世紀の大小説家井原西鶴の小説に「本朝二十不孝」というものがあります。これは中国の有名な「二十四孝」をもじったもので、よりによった親不孝者の話をならべたものです。大体、親孝行の話などは、読んでおもしろくなく、くすぐったくなるような、わざとらしい話が多いが、そこへ行くと、思い切った親不孝の話は読んでおもしろく、自分は相当親不孝のつもりでも、そこまで徹底できる自信はなくなり、「へえ、親不幸にも上には上があるもんだなあ」と妙に及びがたい気持になり、それに比べると、自分なんかは相当な親孝行だと思われてくる。そしてまず、自分を親孝行だと思うことが孝行のはじまりですから、こういう本はなかなか益があることになる。私が流行の道徳教育をもじって、「不道徳教育講座」を開講するのも、西鶴のためしにならったからである。・・・

教師を内心バカにすべし:

 学校の先生を内心バカにしないような生徒にろくな生徒はいない。・・・・・・こう私は断言します。しかしこの「内心」という言葉をよく吟味して下さい。・・・学校の先生と言うものは、乗り越えられなければならない存在なのです。・・・私自身の経験に照らしても、本当に、いかに生くべきか、という自分の問題は、自分で考え、本を読んで考えた問題であって、先生にはほとんど教わらなかった
・・・先生という種族は、諸君の逢うあらゆる大人のなかで、一等手強くない大人なのです。ここをまちがえてはいけない。これから諸君が逢わねばならぬ大人は、最悪の教師の何万倍も手強いのです。そう思ったら、教師をいたわって、内心バカにしつつ、知識だけは十分に吸い取ってやるがよろしい。人生上の問題は、子供も大人も、全く同一単位、同一の力で、自分で解決しなければならぬと覚悟しなさい。・・・

大いにウソをつくべし:

・・・大人は、自分に対してウソをつくことがだんだん少なくなって、その代わり、人に対して、社会に対してウソを突くようになる。ウソそのものの絶対量は同じだと言ってよい。・・・ウソをつくには、頭脳と神経の浪費を要し、大へんなエネルギーが要るので、めんどくさがりやにはうそはつけません。・・・不良になったり、犯罪者になったりする人のウソはずいぶん巧いようでも型にはまっていて、・・・「授業料が二倍になったとウソをついて、両親から金をせしめる」とか、せいぜいお体裁を飾るウソから出発して、だんだんボロが出て、犯罪に入るコースをたどっている。本当にウソをつくには、お体裁を捨て、体当たりで人生にぶつからねばならず、つまり一種の桁外れの正直者でなければならないようです。・・・

泥棒の効用について:

 古代ギリシャのスパルタでは、少年たちに泥棒行為が奨励されていました。ご承知のとおりスパルタは尚武の国ですから、これは兵士としての敏捷さをみがく訓練だと考えられたわけです。・・・いくら不道徳教育講座だといって、私は何も諸君に泥棒をおすすめしようというわけではない。善人たることもむつかしいが、泥棒たることもむつかしい。スパルタ少年ヤ、ジャン・ジュネや、石川五右衛門のような泥棒になるには、三等国日本の総理大臣なんかになるより、ずっと捨て身の覚悟と恵まれた天才を要します。・・・
 今、道徳教育などとえらい先生が言っているが、私は、善のルールを建て直す前に、悪のルールを建て直したほうがいいという考えです。・・・

うんとお節介を焼くべし:

・・・どこの学校にも「オデシャ」という仇名の生徒がおり、何にでも出しゃばり口を出して、余計なお節介をして、みんなにきらわれながら、他人のために「ついつい」尽くしてしまうという美しい心情を捨てきれない人がいる。・・・こういう人たちの人生はバラ色です。何故ならいつまでたっても自分の顔は見えず、人の顔ばかり見えているので、これこそ人生を幸福に暮らす秘訣なのです。・・・人をいつもいやがらせて、自分は少しも傷つかないという人の人生は永遠にバラ色です。何故ならお節介や忠告は、もっとも不道徳な快楽の一つだからです。

できるだけ自惚れよ:

・・・謙遜ということはみのりのない果実である場合が多く、又世間で謙遜な人とほめられているのはたいてい偽善者です。・・・「みのるほど頭の垂るる稲穂かな」などという偽善的格言がありますが、みのればみのるほど頭が重たくなるから垂れて来るのが当たり前で、これは本当は、「みのるゆえ頭の垂るる稲穂かな」と直したほうがいい。高い地位に満足した人は、安心して謙遜を装うことができます。・・・
 自惚れ屋の長所は、見栄ん坊に比べて、ずっと哀れっぽくないことです。・・・見栄ん坊は、いつも自分の持っていないものを意識して、・・・背伸びをしているわけですから、自惚れ屋のようにカラッと行かず、ジメジメしているのです。自惚れ屋は、何でもかんでも自分が持っていると信じているんだから、陽性です。・・・彼はウソつきではないのです。これに反して、謙遜な人というのはたいていウソつきです。・・・

「殺っちゃえ」と叫ぶべし:

・・・人間の原始的本能を比較的無害に満足させてくれるスポーツですが、・・・文明が進めば進むほど、押さえつけられた逆に勢いで、却って強まっていく傾向があります。・・・世間に尽きない誤解は、「殺人そのもの」と、「殺っちまえと叫ぶこと」と、この二つのものの間に、ただ程度の差しか見ないことで、そこには実は非常な質の相違がある。・・・文明が進んで、社会が窮屈になればなるほど、人間の血なまぐさい原始本能は、ヒステリックに高まってくるのは、前に申したとおりですが、それが「殺っちまえ」という叫びにならずに、重苦しい不安の形になって、じかに本当の殺人行為に人を追いやってしまうというのが、現代の病気であるらしい。・・・

人の恩はわすれるべし:

・・・うちの亡くなった祖母はいい人物でしたが、困った欠点があって、・・・誰それがお礼を言うのを忘れた、とか、しじゅう言い暮らしている人でした。こういう人の人生は灰色で、人の裏切りや恩を数え立てて一生を送らなければなりません。・・・恩返しは人生を賃借関係の小さな枠の中に引き戻し、押し込めて局限してしまう。それに比して、猫的忘恩は、人生の夢と可能性の幻影を与えてくれるといえましょう。

沢山の悪徳を持て:

・・・九十九パーセント道徳的、一パーセント不道徳的これがもっとも危険な爆発的状態なのであります。七十パーセント道徳的、三十パーセント不道徳的、ここらが最も無難な社会人の基準でありましょう。このパーセンテージは、なかなか数学的に行かないのであって、一パーセント不道徳氏のほうが、三十パーセント不道徳氏よりも、ずっと犯罪の近くにいることが多い。中には豪胆なる政治家のように、一パーセント道徳的、九十九パーセント不道徳的というような比率を示していても、犯罪者どころか、立派に「国民の選良」で通っている人もあるわけです。・・・人を悪徳に誘惑しようと思う者は、たいていその人の善いほうの性質を百パーセント利用しようとします。善い性質をなるたけ少なくすることが、誘惑に陥らぬ秘訣であります。

人の失敗を笑うべし:

・・・どんな功利主義者も、策謀家も、自分に何の利害関係もない他人の失敗を笑う瞬間には、ひどく無邪気になり、純真になります。・・・こういうことがなかったら、人生はどんなに退屈か、よく考えてみる必要があります。それなら、ふとした失敗で、人の退屈を救うということほど、人生に対する大きな寄与はないのであって、しかもそれによって、われわれは沢山の人間の、純真な、無邪気な、美しい笑顔を見ることができるのであります。・・・もっと人の目の見えるところで、滑稽な失敗を演じたら、どんなに愛されるかしれないのに、ソ連も中共も、未だかつて失敗したことのないような顔をしています。・・・友情はすべて嘲り合いから生まれる。「あいつが女にふられたって?あいつ、何てバカだろう!何てバカだろう!何て間抜けだろう」と涙を流さんばかりに笑ってくれるのが、真の友であります。

肉体のはなかさ:

・・・精神的教養というものが、すべての男に必要である程度に、肉体的教養は必要であって、健康な、キリリと締った肉体を持つことは、社会的礼儀だと考えている。世間は、精神的無教養をきわめた若者たちの暴力ばかりを心配しているが、支配者層のインテリの肉体的無教養もずいぶんとひどいものであります。・・・フランス語の単語を五千知っているのと、胸囲が一米十センチあるのと、どっちが立派なことかというと、甲乙つけにくいというのが私の考えだが、世間はもちろん単語五千のほうへ軍配をあげます。・・・現代社会では、筋肉というものは哀れな、道化たものにすぎない。だからこそ、私は筋肉に精を出しているのであります。

痴呆症と赤シャツ:

(自分が痴呆症や精神病者であるという投書をネタにして)・・・人はなぜ投書をするか?孤独だからです。そして孤独な意見を、何とか社会的な意見という形に化粧して、投書するのが常であるのは、新聞社の投書夫人の例を見てもよくわかる。投書家はなぜ孤独なのか?彼はつまり不満だからです。ほかの人たちは、私のテレビを見て、・・・ニヤニヤしているにちがいない。しかし、投書家はまじめであって、他人の意見やニヤニヤ笑いに同調できない。彼は決してゆるせない。しかもその意見を発表しようがないから、モーレツ不満なのです。
 投書家はなぜ不満なのか?それは彼が道徳家だからです。彼にはコマゴマしたものに対する厳格な道徳的な好みがあって、日本人は、黒っぽいキモノを着て、うすぐらい日本の家の、タタミの上に坐っているべきだ。赤い靴下や赤いシャツを「男のくせに」喜んで着るなんて、女々しい、ゆるしがたい所行だという考えを守っています。・・・現代は一方から他方を見ればみんなキチガイであり、他方から、一方を見ればみんなキチガイである。・・・自分だけ正気でいられる時代、あるいは正気だと思っていられる時代はすぎたのです。悲しいかな!・・・

おわり悪ければすべて悪し:

「おわりよければすべてよし」と言われるが、この不道徳教育講座ばかりは、そういうわけにも行きません。・・・大体日本には、西洋でいうようなおそろしい道徳などという代物はないのです。この本質的に植物的な人種は、現在、国をあげて動物のマネをしているけれど、血なまぐさい動物の国の、動物の作った掟なんかは、あんまり植物にはピッタリ来やしないのです。
・・・安心していいことは、悪が美しく見えるのは、われわれがつまり悪から離れていることであって、悪の只中にどっぷり浸っていたら、悪が美しく見えよう筈もありません。

| | コメント (1) | トラックバック (0)

2011年10月 2日 (日)

ドイツ人コーチによるサッカークリニック in 江戸川

中学生を対象にドイツ人コーチによるサッカークリニックが行われた。

Dscf6080_2
<ウドコーチとコミュニケーション>

Udo Hölzer(ウド・ヘルツァー)
S級ライセンスを持つ監督。州サッカー協会に携わり、19年前に宮城県サッカー協会のアドバイザーを務めてから、ずっと日本サッカーに携わっている。嫌いな食べ物はイカ。俺のドイツでの師匠。


Dscf6089


Bernd Stöber (ベルント・シュトゥーバー)

S級ライセンスを取得し、ブンデスリーガのコーチ、ヘッセン州選抜ユースチーム監督を務める。ドイツ代表U-15~20監督(約350試合)を担当し、U-17やU-20ワールドカップでも指揮をとる。現在代表で活躍する選手(ポドルスキー、シュヴァインシュタイガー、エジル、ミュラーなど)の育成に携わった。またベッケンバウアー監督のもと、A代表のコーチやスカウティングも担当し、2008EUROと2010ワールドカップではゲーム分析チーム責任者。現在はドイツサッカー協会コーチライセンス最高責任者。俺のドイツの先生。

Dscf6093
<集合写真>

1度の練習では一気にレベルアップは難しいけど、パスやトラップ、オフ・ザ・ボールの動きなどに関わる練習メニューをこなした。この日に関わった子供たちだけでなく、コーチたちもレベルアップして、より多くの子供たちに影響を与えてくれたらと言っていた。

「うまくなるためには1回の練習で集中すること。そして、質の高い練習を継続すること。みんながうまくなることを期待しています。でも、上手くなりすぎて、将来ドイツ代表に勝たないようにしてください(笑) by シュトゥーバー」

P1070023
<ウド、もっちゃん、ベルントと>

今回の滞在は短かったけど、またドイツか日本で。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2011年9月 | トップページ | 2011年11月 »